
おもむろに立ち上がり、角谷教授は廊下から研究紹介のポスターを運び入れた。ポスターには、モデル植物のひとつ『シロイヌナズナ』の写真が写る。研究を語る教授の口調はいつもより滑らかだった。
「今、遺伝学ができていることに非常に満足している」。
現在、角谷教授が取り組んでいるのは様々な特徴を持つシロイヌナズナの突然変異体に着目し、そのメカニズムを明らかにしていくことだ。直接的なDNA の塩基配列の変化だけが突然変異体の原因ではない。「塩基配列情報以外の影響によっても変異体は生じるし、その情報は伝わっていく。DNAやタンパク質の化学修飾はそういった情報のひとつで、その働きがどういうものかを調べている」。数多くの交配を行い、遺伝学的なアプローチで角谷教授はこの謎に迫る。
「できるだけ結果のわからない実験をしたい。一番やる意味のある実験は、Aという結果とBという結果が50%-50%の確率で出ると予想される実験だと思う」。角谷教授は穏やかに、しかしはっきりと言う。もちろん仮説があたったときはうれしい。だが、それ以上に研究をしていてうれしい瞬間があるという。「予想していない結果が出て、その結果を納得できたときはぞくぞくするし、研究が報われたと思う」。最近この瞬間を味わったのは、角谷研究室の研究員が発見した結果だ。「彼女は僕と違って、とにかく実験してみるというタイプ。違うタイプの人がいてくれる ことで、刺激を受けられる」。違う考え方も受け入れる。この柔軟さが新発見の芽を逃さない。
シロイヌナズナは植物の中では一生が短く実験に適したモデル生物とはいえ、次の種を作るまでの一世代が一ヶ月以上かかる。その時間を角谷教授は次の種まきに 当てている。通常の研究室では、このような作業を教授自らやることは稀であるが、研究室の研究員のためにこの地道な作業を今も続ける。